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理想論でもキレイゴトでも嘘でも建前でもいいじゃない

以前、「実用的思考停止法、または『現実主義』という名の現状追認主義について」というながーいタイトルの記事を書いたことがあります。さるところで「青臭いキレイゴトの理想論なんて、現実に対して無力であるばかりか、危険ですらある」とかいった(ある意味お決まりの)物言いを目にして、腹が立ったというか呆れかえったというか、とにかくそういう言いグサがまだなくなっていないのだということに驚いて書いたものです。少なくとも私の中では、「キレイゴトの理想論」よりも「現実主義(というか現状追認主義)」の方が、ずっとずっとはるかに「危険」だと思っていますので。

アレコレのニュースなんかを見ていても、首相だの防衛相だのマスメディアだのブロガーだの、いろんな人々がそのテの「危険」な物言いを、相も変わらず繰り返していることが目に付きます。みんな、自分にだけは「現実」が見えていると思ってるんだろうなあ。シヤワセですね、皆さん。

……てなことを思いながら、ネット上のいろんなところをウロついているうちに、すでに1952年に丸山真男が「『現実』主義の陥穽 ある編輯者へ」という文章を書いていることを知りました。ちょっと変則的な形ですが、コチラ(<リンク先は河合塾のサイト)で一部を読むことができます。「警察予備隊」(のちの自衛隊)の改組が問題となっていた時期に書かれた文章だけに、丸山の批判は厳しいものがあります。しかし、その批判の内容は、少しも古びていないどころか、今まさにアクチュアリティを持っているようにも思えます。丸山によれば、「現実を見よ」と言う人たちの呼ぶ「現実」とは、「所与性」「一次元性」「支配権力との親近性」という三つの特徴を持っている、というのですが、それこそ上の記事で私が言いたいと思っていたことでした。もし最初からこの文章の存在を知っていたら、いちいちウンウンうなりながら記事を書くことはなかったわけで^^;

まあ、「理想」ってものは、言ってしまえば(ある種の)「ウソ」だとは思うんです。それも、しばしば壮大な「ウソ」。だけど、ウソにはウソなりの存在意義があるわけですよ。あまりにも目線が固着してしまうと、ウソって言えませんからね(そういえば、石川元『隠蔽された障害』で取り上げられている山田花子の、過剰なまでに「ウソ」に不寛容な語り口を思い出します)。つまり、「ウソ」を言う(=自分の目に見えないことを語る)、ということによってこそ、自分の目線という固着した立場から飛翔することが可能になる、ってことじゃないでしょうか。そういう意味で、絶対に「ウソ」を言えない(し、他人の「ウソ」にも不寛容な)人というのは、(何かの病気などでなければ)ちょっと貧しい心性の持ち主なんじゃないか、と、私などには思えます。

前回の記事で私は

例えば「自由」だとか「権利」だとかいう考え方は、「目の前の『この現実』」に屈服しないことによって描き出され、獲得されてきたのではありませんか。

と書きました。例えば、日本国憲法に明文規定がなくても、「自分は『プライバシーの権利』を害されている」と主張する(=従来なかった「権利」を主張する=ないことを言う=「ウソ」を言う)ことによって「プライバシーの権利」というものが新たに「発明」されたように、「ウソ」によって「世界」が広がる、という側面はあると思うのです。このようにして、「目の前の『この現実』」とは異なる現実、すなわちオルタナティブを描き出すことによってこそ、私たちは「世界」を広げ、「自由」や「権利」を獲得してきたのではないでしょうか。……そういえば、末弘厳太郎『嘘の効用』なんていう古典的名著がありますね。

ちなみに今回の話、jo_30さま@「こころはどこにゆくのか?」の「本音と建前の無い時代」という記事に触発されたものです。本音しか言わない/言えないヤツはしばしば「誠実な人」などと呼ばれますが、角度を変えてみれば「想像力を欠いたヤツ」でしかない、というケースもあるでしょう。「嘘」は重要だと思う次第です。ああ、もしかして私もjo_30さまの分類では「詐欺師」タイプになるんでしょうか?(笑)