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「現実」の改変可能性をどう見積もるか

いやぁ、なんで突然アクセス数が伸びたのか、やっとわかりましたよ。 →ブクマ

ま、何にしても読んでいただけるというのはありがたいこっちゃ、であります。D_Amonさまには、しっかりと解説していただいておりますし。ありがとうございます。はてなユーザーじゃないのでコメントをつけられないため、TBを送っておきます。

で、「後出しジャンケン」の感もありますが、ちょっとだけ付け加えておきます。

そもそも「現実」というものの認識のしかたには多様性があり、その多様な認識可能性のうちでどれを自分の判断として採用するか、ということ自体に、すでにその人なりの〈解決への青写真〉が組み込まれていると思うのです。「問題の解決」というのは「現実」の改変にほかならないでしょうから。そして、「『現実』から遊離したもの」を批判する人は、しばしば、「現実」のうちの「改変することのできる/改変すべき部分」を小さく(というか過小に)見積もりがちなのではないかな、と思うわけです。

しつこいようですが、「自由」だとか「権利」だとかいう考え方は、「現実」のすべてを所与のものとは見なさず、「現実」の改変可能性を新たに描き出すことによって獲得されてきたもの、ではなかったでしょうか。現状で、すべての人に等しく、かつ十分な形で「自由」や「権利」が保証されているのならばともかく、決してそのように言い切ることができない以上、「現実」の改変可能性を広げようとする試み自体は、斥けられるべきものではないように思います(そもそも「すべての人が『自由』や『権利』を手に入れる必要などない」と考えるのならば話は別ですが)。

そのようなわけで、「現実」の改変可能性についての見積もりが大きければ大きいほど、〈解決への青写真〉は大規模なものとなり、ある意味で「理想」めいてくると言うこともできるでしょう。しかしそれを、「理想だから」「(すぐに)実現できないから」というだけの理由で捨て去ってしまうことには、私は同意できません。むしろ、「現実」のより新たな改変可能性を認識できるように、自分の判断を随時更新していくことの方が、私には重要に思えます。

「だけど『理想』は危険だ!」というお話もあるようですが、そちらについては、「確かに『危険な理想』もありますよね」とだけ、ひとまずお答えしておきます。