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「努力」教の狂信者をネット上に見た

最近見た素晴らしい「努力」の定義(インターネットください)という記事にふと行き当たり、興味深く読ませてもらいました。この記事に
良くいわれる「努力の正体が何なのかわからない」というのは、「現在進行形でおこなっている行為は、成功しない限り第三者から努力とは認定されないから」だろう。努力とは元々「後付けで成功原因を説明するためのメソッドだった」というのが個人的なまとめ。
とあるのですが(太字強調は引用者)、これってフツーに正しいでしょ、と私などは思います。さらに言えば、「後付けで成功原因を説明するためのメソッドだった」こと自体を忘却した時に初めて、「努力が成果に結実する」という信仰が生まれるのだ、とも思うわけです。一般に「信仰」というものは、〈私はこれを信仰している〉という事実を忘却してこそ真に機能するのでしょうから。

とゆうわけで、この件に関して
「成果を成果と見抜けないような、目が節穴の人間ほど、努力を嫌いになっていくんじゃないか?」
などというアレな反応をしている人(=この自称精神科医らしき人)は、「後付けで成功原因を説明するためのメソッドだった」こと自体をキレイサッパリ忘却した人だ、ということであり、要するにこの人は単に〈「努力」教の信仰告白をしている〉だけだ、ということです。お疲れさまでした。

まあ、私は、「努力は尊いものだ」などと真顔で言われると、「詐欺師も一人前になるためには相当な努力が必要ですからねぇ」と返答することに決めているのですが、だからといってあらゆる「努力」が無意味なものだとまでは言いません。私だって「努力」らしき行為をすることが、たまにはあります。

それに、私は根がサヨッキーですから、意味のある(または価値のある)「成果」を志向した「努力」には、その「努力」が「成果」に結びつきそうかどうかとは別に、それ相応の意味や価値を認めたいと思っているわけです。たとえば、直ちに実現する可能性は低くても社会運動を続ける、というのは、運動の目的によっては「尊い『努力』」たり得ると思うのです(自称精神科医氏は、直ちに成果を得られる可能性の低い社会運動を忌み嫌っているようです。少々古いですが、この思いこみ丸出し記事などは象徴的です)。書いてしまえば当たり前のことですが、尊い「努力」は尊いし、カスな「努力」はどうしようもなくカスだ、ということです。「努力」だから「尊い」のでも、「努力」だから「カス」なのでもありませんし、〈どういう「努力」が尊くてどういう「努力」がカスであるか〉を一義的に定めることもできません。そういうもんじゃないですかね。

だけど、「努力」教の狂信者は、そう言われると本気で腹立つみたいですね。「努力」が無駄に終わることなんてザラにあると思うんですが、あんまり狂信的に「努力」教を信じていると、そういうときに危険なんじゃないですか?

ていうか、だいたい「努力」というのは、「努力すればどうにかなる」という社会的・経済的諸条件が整っていなければ意味をなさないものです。たとえば日常的にテロだのクーデタだの革命だのが起こっている状況で、「努力」などというまだるっこしいことはやってられないでしょう。だから、「努力」という概念が実質的な意味を持つためには、いわゆる「社会の安定」なるものが少なくとも必要になるわけです。まあ、数え上げていけばほかにも必要な条件はありそうだけど、とりあえずここでは、「努力」の前提として社会的・経済的条件が必要だ、という点だけ指摘しときます。

なもんだから、今日私たちが使っている「努力」というコトバの意味は、限られた社会状況のなかでこそ成り立ち得たもの、きわめて近代的なものだと、並程度以上の教養を持ち合わせている人なら考えるはずです。たとえば中村正直・訳の『西国立志編』はどういう社会状況のなかで広く受け入れられていったのか、とかを念頭に置きながら、ね。

なので、「努力」教の狂信者ってのは、まあ言うなれば「過近代的(ハイパー・モダン?)な人」ってことになるでしょうか。近代的価値観になじみ過ぎちゃった人、ってことです。「過近代的」であることが悪いことかどうかは置いておくとしても、そういうきわめて限定されたごく狭い立場からまったく動こうともしないで、他の立場に立つ人を罵倒するような行いをするのは、少なくとも精神科医としては、ちょっとほめられたものではないと感じますね。二重の意味でこの人の教養のなさが露呈していると思います。

ちなみに、竹内洋『立志・苦学・出世 受験生の社会史』(講談社現代新書、1991年)という本が、近代における「努力」の話をしていたように思うんですが、今手元になくて確認できないので、とりあえず書名だけあげておきます。



【20090921追記】
「まっとうな男女交際って、それなりに修練しないと無理じゃね?」

あほくさ。
「『まっとう』って何?」とか「『男女』じゃないとダメなわけ?」とか、タイトルからしてツッコミどころ盛りだくさんで、今回も教養のなさが全開に出ています。こんなん相手にしててもしょうがないのでもうヤメにします。評価するに値しないものには言及しない、という従来のスタイルに戻ることにしますか、ね。