虎ときどき牛(奥の間)@はてな

「虎ときどき牛(奥の間)」@Yahoo!ブログからの引っ越し先です

中検のついでに日吉キャンパス近辺を散歩

この間の日曜日、中国語検定を受けて来ました。受験級は3級です。手応えはまずまずあって、これなら大丈夫だろう、と思っていましたが、発表された解答と照らし合わせて自己採点してみた結果も、だいたい85%程度ということで、どうやら合格できそうです。

今回も、ハングル検定の時と同様に、試験会場は慶大・日吉キャンパスでした。前回来た時は試験が午後だったので、試験後に散策する余裕はなかったのですが、今回は午前の試験だったので、ちょっと周辺をぶらついてみました。

試験が終わったのは、ちょうどお昼の12時。学食が開いてないかと探してみましたが、それとおぼしき建物は扉が閉まっており、中も真っ暗でした。そこで、いったん日吉駅の反対側に行き、すぐに目に付いた中華料理屋で麻婆丼を食べました。小さなスープと杏仁豆腐が付いて、750円也。味も値段もまあまあ、かな(悪くはない、という意味です)。しかし、お手ふき片づけてから写真取ればよかった……。
イメージ 1

食べ終えたら、散策開始です。ガイドブックとしては、戦争遺跡保存全国ネットワーク・編『戦争遺跡から学ぶ』(岩波ジュニア新書、2003年)を持参しました。こちらのpp.34-39に、「日吉台地下壕」の紹介が載っています。以下の記述は、ほとんどこちらの本の記述に沿っています。関心をお持ちになった方は、ぜひ本書を手にとってご覧ください。なお、Wikipedia「慶應義塾大学」項の「教育および研究」の中にも、少しだけ「旧帝国海軍地下壕」の説明があります。

さて、改めて東急日吉駅から綱島街道を渡り、慶大キャンパスに入ります。ちょうど黄葉が見ごろの銀杏並木を抜けて、突き当たったところの左右に、白亜の古い校舎があります。右が第一校舎で、かつては文科系の予科生の校舎、左が第二校舎で、かつては医学部予科の校舎だったのだそうです。写真は第一校舎のほう。戦争末期には、この建物が海軍軍令部によって使用されたのだとか。横手に回っていくと、校舎が建てられた年を刻んだレリーフがあるのですが、なんと「皇紀2594年」の年号も併記されています(こんなの、よく残ってるなあ……)。
イメージ 2
イメージ 3

第一校舎は、いまは慶應義塾高等部の校舎ということで、あたりでは運動部の高校生がたくさん練習をしており、ここからさらに歩き進んでいくのがためらわれましたので、いったん引き返しました。銀杏並木まで戻り、右に折れていくと、陸上競技場があります。ここではやはり、軍事教練などが行われていたようです。行ってみると、外周に植えられていた紅葉が見ごろでした。
イメージ 4

陸上競技場を一周し、綱島街道の脇まで戻ってきたところで、こんどは慶大の敷地の外側に沿っている道を歩いてみます。だらだら坂を上り、さきほどの第一校舎の横あたりにくると、古い教会堂が残っています。ここは海軍によって、米軍放送の傍受などに使われたんだそうです。
イメージ 5

この道をさらに進んでいくと、何面かあるテニスコートの間に、弥生式住居の跡が現れます。そして、その跡の脇に、コンクリート製のキノコ型構築物。この下に、日吉台地下壕の縦坑のひとつがあるのだそうです。そしてこの構築物は、爆弾の衝撃にも耐えて坑口を守るように作られた、当時の遺構なのだとか。これは慶大の敷地内にあるので、外から見ている私は近寄ることができませんでしたが、どうやら脇のテニスコートでテニスをしている人のものらしき荷物が、中に置かれていました。今では、日よけ・雨よけのできる荷物置き場として活用?されているようですね。
イメージ 6

そして、もっと奥に突き進んでいくと、慶大日吉寄宿舎があります。この寄宿舎は谷口吉郎の設計なんだそうですね。そんな有名な人の作品だったのか……。
イメージ 7

で、海軍の地下壕はこの寄宿舎の下にあるらしい、というのですが、どこに入り口があるのか、ちょっと見つけられませんでした。せめて入り口だけでも見てみたい、と思っていたのですけれどね。もうちょっとちゃんと下調べをしてから行くべきだったかなあ、と思います。

こんな感じでぶらぶらしていたら、ぽかぽか陽気も手伝って、すっかり汗だくになってしまったので、散策は取りやめ。あとは本屋などに行って用事を済ませ、東海道線グリーン車に乗り込んで、ビール片手に崎陽軒の特製シウマイ(<ちょっとだけお高いけど、おいしいのです)をつつきつつ帰宅しました。なんともだらけた結末ですみません。しかも、背もたれにつっこんだビニール袋なども片づいていないという……^^;
イメージ 8